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“門前の小僧”



浄土真宗の本尊2

 三帰依文にある「人身受け難し、今、既に受く。仏法聞き難し、今、既に聞く」は、無始以来、常に輪廻転生してきた凡夫が、無上大涅槃を証す仏陀に成る、唯一の機会を獲得したことを讃えています。したがって、仏教においては人間・凡夫のことを機と言います。この様な凡夫に無上大涅槃へ歩むことの覚醒を促し続けるのが、法です。浄土真宗における「機法一体の南無阿弥陀仏」というのは、阿弥陀如来の智慧と慈悲に摂取不捨されることに他なりません。そのことを体認する巧みな方便に要門(『観無量寿経』の定散二善)が開かれたのです。
  凡夫の利己的自己関心を剥く為に設けられた方便です。このことを通さず、凡夫の自力で、無上大涅槃を内容とする無量光明土に到ることは不可能です。定散二善を修行することが、既に述べたとおり、徹底的に凡夫が迷わされる曲がった自己関心を剥くのです。すなわち機の深信は、法の深信が成就してこそ、慚愧不放逸の身となるのです。このことが、「悪を転じて徳となす正智」、転悪得智の阿弥陀如来の不可称、不可説、不可思議の妙有です。そのことを凡夫に信知、信受、信楽させることを目的に、十劫の昔日、法蔵菩薩が五劫思惟し、一切衆生を漏らさず救済する大悲として、本願を建立しました。その本願を正受する国土が必要とされました。その国土は、凡夫が住む自己執着に汚れた暗い国の延長ではなく、本願に酬報した無量光明土です。無量光明土は、阿弥陀如来の智慧が遍満した国土なのです。阿弥陀如来は一如より吾人ら凡夫に、その妙有を知らせんが為に方便法身として還相してきました。一如、すなわち法性法身が還相した阿弥陀如来が本願力回向したことを凡夫が信受、信知したことが往相回向の信楽を獲得したことです。往相回向を獲得した位が、一念発起入正定之聚でした。この現生正定聚の位に立つことこそが、人生の大目標であり、真の出発点です。どんなに苦しみ悩むといえども生きる根拠なのです。
 宗祖親鸞聖人が、『顕浄土真実教行証文類』「総序」で述べる「窃かに以みれば難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する慧日なり」は、有漏の凡夫が、自らの力では泳ぎきることのできない、縁が催せば善人にも悪人にもなる暗黒の海から、光輝く阿弥陀如来が建立した無漏清浄の無量光明土の岸へ渡らす為に、阿弥陀仏が船長の大願の船に乗せるのです。「本願招喚の勅命」は、必ず六道輪廻の三界に二度と退転しない、無生の生の極楽に生まれ往くことが決定した現生正定聚に就け、つまり弘誓の船という不沈艦に乗船する乗船券を獲得しなさい、と呼びかけています。また、「無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり」は、私たちの「後生暗い心」を破邪し、阿弥陀仏の知慧を賜り生きていくことを顕正しています。蓮如上人が『御文』で強調した「後生の一大事」は、浄土真宗の根本である『大無量寿経』下巻、「衆生往生の因果」において、釈迦が、凡夫の在り様を「愚痴蒙昧にして、自ら智慧ありと思うて生じて従来するところ、死して趣向するところを知らず」と抉りだしています。「後生暗い心」とは、まさにこの様な人間のことを言います。凡夫の自力迷情の妄念妄想で、死後の世界が有る(唯物論)、死後の世界が無い(虚無主義)を論議することを釈迦が「愚痴蒙昧にして自ら智慧ありと思うて、生じて従来するところ、死して赴向することを知らず」と凡夫の有無の見を傷み哀しんだのでした。だからこそ釈迦自身が有為有漏の相対有限の身を失っても、衆生(凡夫)を永遠に無上大涅槃に必ず滅して度らせる為に、念仏の法を弥勒菩薩へ附属したのでした。念仏の法こそ、大乗の至極たる浄土真宗の面目躍如です。すなわち、「後生の一大事」は、親鸞聖人の記された『愚禿抄』で云えば、「前念命終後念即生」です。後念即生を「後生一大事」というのです。つまり、一秒でも速やかに欲界、色界、無色界の三界を六道輪廻する命を、永遠、そして絶対無限の釈迦、仏陀である阿弥陀が揮う横超の利剣で斬られ終え、阿弥陀の大悲回向の本願のいわれをあかすことが、即時に阿弥陀の智慧を賜った後に、報恩謝徳と自信教人信の誠を尽くし生きていくことが、「前念命終・後念即生」の「後生の一大事」です。いつでも、どこでも、だれにでも、正法、像法、末法、滅法を問わず悲引したまうことが浄土真宗です。 親鸞聖人は『正像末和讃』において、浄土真宗のはたらきを

「南無阿弥陀の回向の
恩徳広大不思議にて
往相回向の利益には
還相回向に回入せり」

と和らげ讃めているのでした。

以降は『浄土真宗の本尊』3に続きます。
# by monzennokozo | 2007-07-22 23:58 | 門前日記

浄土真宗の本尊

過疎の最終形態、限界集落に陥り地域が崩壊しています。また、3月25日に襲われた地震により被害を受け、生活が不安定という苦悩に縛られても、生きぬかなければなりません。

  なぜならば、人生の大目的を果たす為です。その人生の大目的を成就させる絶対無限の妙有のアザーパワーの源は何か、阿弥陀如来の往相回向、還相回向の無漏清浄の智慧です。

  今回は迷妄の凡夫に、人生の大目的を成就させる本体、宇宙に遍満する光の源である阿弥陀仏について、私門前小僧の了解するところを述べてゆきます。

  生き辛い暗黒世裡に生きる凡夫に光を与えた親鸞聖人が顕現した浄土真宗の本尊阿弥陀如来は何故、坐像ではなく立像なのでしょうか。立像は、どの様な働きを象徴し、どの様な機を救わんとしているのでしょうか。

  真宗門徒である私には根元的で、なおかつ素朴な疑問です。この問いが起きたのは、ただ口に南無阿弥陀仏と唱えているだけでは…、という内心からの促しがあったからです。
日々、お内仏の前で朝夕の勤行をすることは、私たち真宗門徒の嗜みです。嗜癖ともいうべき、それなくしては生きていけないということです。それを習慣的で無自覚な信仰ということは簡単です。しかし、何故に先祖代々、お内仏を給仕してきたのでしょうか。また、人間の厳粛たる事実である死を受け止める葬式に、何故、浄土真宗の法式でしているのでしょうか。それは哲学や思想で超えられないことがあるからに違いありません。
哲学や思想にたいする誤謬を述べることを、お許しいただきます。哲学や思想が儀式作法になり、葬式を行ったことを聴いたことがありません。それは生活までに浸透していないからではないでしょうか。

  社会変革の礎になったことはあるかもしれません。しかしながら、人間の営みが一瞬にして消える死にたいして何らかの答えを提示したことがあったのでしょうか。寡聞にして私は知りません。もし、そのことに対し明確な答えを示していたならば、哲学や思想が葬式の儀式作法になっていたでしょう。

  ところで、現在の仏教の問題点について述べておきます。日本仏教が現実社会に何らかの方向性を示し行動したかといえば、葬儀法事のみに止まり、東南アジアで興起したエンゲージィドブディズム(行動する仏教、闘う仏教)までに展開したかといえば、ごく僅かの仏教者を除き浸透していません。大多数の仏教者が、惰眠を貪っていることだということもできるでしょう。それは遇縁存在である凡夫においては、行動できる縁に遇った人と、その縁に遇わなかった人の違いではないでしょうか。
 浄土真宗の正依の経典のひとつ『観無量寿経』(以下、観経)に、人間が浄土に往生する行に定散二善が説かれます。縁にあってエンゲージイドブディズムが出来る出来ないは、このことを念頭に置いてです。


次回の投稿で、そのことを述べてゆきます
# by monzennokozo | 2007-06-03 20:43 | 門前日記

現世利益への考察

  浄土真宗は、吉凶禍福を占うことや鬼神を拝む邪執を離れた御教えであることは、周知の事実である。すなわち、親鸞聖人が、否定したことの根底にある利己的な現世利益信仰は、人間が阿弥陀如来から回向される智慧を信知、信受しない無明性を深めていくことになると、見定めたからであった。この視点に立脚するならば、宗祖親鸞聖人が何故に、『現世利益和讃』を15首も遺したのかという疑問が喚起されるといえるだろう。たとえば、表層的なことを述べると、親鸞聖人が在世時の吉凶禍福に怯える民衆に寄り添ったからだという見解も可能である。しかし、私はその様な見解を認めない。なぜならば、南無阿弥陀仏の名号にこそ、莫大な功徳が込められているからである。その功徳の内容こそ、真宗仏教の真髄があるのだ。

山家の伝教大師は
国土人民をあわれみて
七難消滅の誦文に は
南無阿弥陀仏をとなうべし

  まず、「七難」について述べておこう。
(一)人衆疾疫の難(二)他国侵逼の難(三)自世反逆の難(四)星宿変怪の難(五)日月薄蝕の難(六)非時風雨の難(七)過時不雨の難 七難は、利己的な災厄ではなく、人類全体が直面している災厄であると言えるだろう。人間の欲望が資本主義により肥大化し、地球規模で環境問題、環境の変化が生み出した感染症の爆発的増大、戦争等が止むことがない。これらの根底にあるのは、“無明の闇”である。その内容は、浄土真宗正依の経典『大無量寿経』に説かれる「愚痴蒙昧にして、自ら智慧ありと思うて生じて従来するところ、死して趣向するところ知らず」ということである。つまり、自然環境と切り離して存在し得ないのにも関わらず、欲望を肥大させるだけさせ、地球温暖化、酸性雨、限られた資源の枯渇という、抜き差しならない状況に追いこんだのだ。そして、ガソリンに変わるエネルギーとして、菜種やトウモロコシ、大豆などから作るバイオエネルギーが食糧危機を招く。そのことはすなわち、富や軍事力のある国が、そうではない国から自らの国を裕福にする為、侵略することに繋がる。また、各国の国内においては格差が是正し難いまで広がっている。
  日本におけるフリーター、ニートの増大は、いずれ恨みを結び暴発する日が訪れるといえるだろう。また、隣国中国における反日運動の根底にあるのは、富裕層と貧困層の拡大と、それを許した中国共産党にたいする不満をかわすため仕組まれた運動という識者もいる。いずれにしろ、人間の無明性が生み出した、七難に直面していることは揺るがしがたい事実と言えるのではないだろうか。
  果たして、このことを克己してゆく鍵が、南無阿弥陀仏の六字名号といえるのかという疑問が喚起されるだろう。その疑問を解くヒントを親鸞聖人は、私たち真宗門徒の先達に送った手紙に隠されているのかもしれない。今回の投稿を締めくくるにあたって、紹介しておきたい。 仏のちかいをもきき、念仏ももうして、ひさしうなりておわしまさんひとびとは、この世のあしきことをいとうしるし、この身のあしきことをいといすてんとおぼしめすしるしもそうろうべしとこそおぼえそうらえ。 『親鸞聖人御消息集』より抜粋
# by monzennokozo | 2007-05-12 09:52 | 門前日記

開設に当たっての御挨拶

  はじめまして、このブログを御覧の皆さま。私は、能登半島地震に遭遇し、最も被害が大きかった輪島市門前町に住む「門前の小僧」と申します。生業は真宗門徒です。過疎の最終形態である、限界集落ばかりの旧門前町。メディアで取り上げられないところで、子や孫が大都市に移り残された、お年寄り達が頑張ってます。意固地になっているだけかもしれませんが…。
  奥能登は土徳が豊饒で篤信者が多いと言われますが、果たしてそうなのか、首を傾げたくなります。それは真宗寺院が、人口の割に多いだけかもしれません。かつての篤信地であった土徳の豊饒だった過去を諦め、過疎と地震に被災した現在に安住し、どんなことがこれから待っているか分からない未来に対し奮励していくことをモットーに、永遠なる生命(いのち)と無限なる智慧の働きに照らされながら、自他共に、生き方迄に反映されるスピリチュアルレボリューションが起きることを念じております。
  震災に遭遇するまで、私は土徳なるものに胡座を掻き、惰眠を貪ってきました。毎朝、毎夕の勤行だけ淡々とおこない、生かされているという恩寵に閉じこもっておりました。3月25日の能登半島地震を、境に精神状況は一変しました。余震の度に、死が切実に迫ってくる感覚です。土徳なる幻影に酔い、死を迎えるわけにはいきません。なぜなら、浄土真宗は、不体失往生です。人間の最大事件であり、この世に生まれてきて誰しも果たさなければならない大目標、六道輪廻の迷いを超え、現生正定聚に立つ一念発起の身に変わっていかなければ、ただ空しく過ぎてゆくだけです。阿弥陀如来の智慧の回向と人間であるが故に、自らが本当にしたいこと、しなければならないこと、できることが相応せず、悶え苦しむ、空虚感が埋められないもどかしさの自己完結の中に暮らし、有機物が無機物に変化するだけです。殻を破る為に、己の浅学非才の身を省みず、この度、ブログを立ち上げました。皆様の御指導、御鞭撻を、何卒、宜しくお願い申しあげます。
南無阿弥陀仏
# by monzennokozo | 2007-05-03 02:59 | 開設に当たっての御挨拶


輪島市門前町に生きる  真宗門徒のブログ

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