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“門前の小僧”



浄土真宗の本尊

過疎の最終形態、限界集落に陥り地域が崩壊しています。また、3月25日に襲われた地震により被害を受け、生活が不安定という苦悩に縛られても、生きぬかなければなりません。

  なぜならば、人生の大目的を果たす為です。その人生の大目的を成就させる絶対無限の妙有のアザーパワーの源は何か、阿弥陀如来の往相回向、還相回向の無漏清浄の智慧です。

  今回は迷妄の凡夫に、人生の大目的を成就させる本体、宇宙に遍満する光の源である阿弥陀仏について、私門前小僧の了解するところを述べてゆきます。

  生き辛い暗黒世裡に生きる凡夫に光を与えた親鸞聖人が顕現した浄土真宗の本尊阿弥陀如来は何故、坐像ではなく立像なのでしょうか。立像は、どの様な働きを象徴し、どの様な機を救わんとしているのでしょうか。

  真宗門徒である私には根元的で、なおかつ素朴な疑問です。この問いが起きたのは、ただ口に南無阿弥陀仏と唱えているだけでは…、という内心からの促しがあったからです。
日々、お内仏の前で朝夕の勤行をすることは、私たち真宗門徒の嗜みです。嗜癖ともいうべき、それなくしては生きていけないということです。それを習慣的で無自覚な信仰ということは簡単です。しかし、何故に先祖代々、お内仏を給仕してきたのでしょうか。また、人間の厳粛たる事実である死を受け止める葬式に、何故、浄土真宗の法式でしているのでしょうか。それは哲学や思想で超えられないことがあるからに違いありません。
哲学や思想にたいする誤謬を述べることを、お許しいただきます。哲学や思想が儀式作法になり、葬式を行ったことを聴いたことがありません。それは生活までに浸透していないからではないでしょうか。

  社会変革の礎になったことはあるかもしれません。しかしながら、人間の営みが一瞬にして消える死にたいして何らかの答えを提示したことがあったのでしょうか。寡聞にして私は知りません。もし、そのことに対し明確な答えを示していたならば、哲学や思想が葬式の儀式作法になっていたでしょう。

  ところで、現在の仏教の問題点について述べておきます。日本仏教が現実社会に何らかの方向性を示し行動したかといえば、葬儀法事のみに止まり、東南アジアで興起したエンゲージィドブディズム(行動する仏教、闘う仏教)までに展開したかといえば、ごく僅かの仏教者を除き浸透していません。大多数の仏教者が、惰眠を貪っていることだということもできるでしょう。それは遇縁存在である凡夫においては、行動できる縁に遇った人と、その縁に遇わなかった人の違いではないでしょうか。
 浄土真宗の正依の経典のひとつ『観無量寿経』(以下、観経)に、人間が浄土に往生する行に定散二善が説かれます。縁にあってエンゲージイドブディズムが出来る出来ないは、このことを念頭に置いてです。


次回の投稿で、そのことを述べてゆきます
by monzennokozo | 2007-06-03 20:43 | 門前日記
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輪島市門前町に生きる  真宗門徒のブログ

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